アヒムサについて
HPの表題「アヒムサと共に」の“アヒムサ”という言葉は、普段私たちには馴染みのない、聞き慣れない言葉です。
それもそのはずです。遠く古代インドの言葉・サンスクリット語なのですから。
“ヒムサ”という言葉に否定の接頭語“ア”をつけて“アヒムサ”です。
“ヒムサ”は直訳すると殺生とか暴力などの意味でつかわれています。“ア”をつけることによって、不殺生・非暴力などの意味となってきます。
かのマハトマ・ガンジーが、徹底した「非暴の力(アヒムサの力)」によって英国の植民地支配から独立を果たした手段のことを、一般的には“アヒムサ”と捉えられています。しかし独立の手段として捉えるだけでは言い得てなく、狭義にすぎます。もっと広く深く、ガンジーが到達した「神が真理ではなく、真理が神である」というところにこそ意味があります。
本来、私たちという存在は、内に神性・仏性をひめています。そして実在と「ひとつのいのち」の筈なのですが、生きていくうちにそれを曇らせてしまっています。自分と他者、優劣、好悪、正邪…というように対立する関係をつくりあげています。
そうではなく、お互いの違いや矛盾を認め、対立をも創造の過程として肯定することが大切となります。それは単に殺す勿れ、暴力を慎むという意味を超えて、ひろくすべてを「活かす」というひろい意味をもってきます。
仏教でいう慈愛、キリスト教での博愛…などの言葉にあたりましょうか。
「いのち」が光り輝いているすがた(相)、それが“アヒムサ”です。
アヒムサは「実在」です
アヒムサは「博愛」です
アヒムサは「謙虚」です
アヒムサは「無畏」です
アヒムサは「無期待」です
アヒムサは「寛容」です
アヒムサは「自覚体」です
アヒムサは「柔和」です
アヒムサは「慈悲」です
アヒムサは「十字架」です
アヒムサは「いのち」をみます
―月報「サチャグラハ」平成3年1月~12月巻頭の表題より―